毎日のルーティンに追われていると、「何もしないでいい日」に憧れる。
贅沢で至福の匂いがする。
家族から解放された数日
夫が数日遠方へ出かけた。認知症の母も、ちょうどショートステイの日と重なった。
ワクワク感いっぱいで待ったこの日。
決まった時間に食事を作ることもなく、いつ洗い物をしようがかまわない。
好きな時間に起きて好きな時間に寝る、自由で贅沢な時間だ。
しかも、こよなく愛するワンコと蜜月の時間がある。
初日は胸躍って、夜更かしになった。
とくに何をするわけでもなく、パソコンを開きながら、テレビを見ながら、ワンコのベストショットを撮りながら、好きなものを食べながら、「ながら」のまま日付が変わるまで、ただグデグデと過ごした。
なのに翌朝は短い睡眠時間にもかかわらず、いつもの通りに目が覚めてしまう。
とっさに「いやいや、今日はもっと寝なくちゃ」とばかりに布団にもぐってみるが、もういけない。パッチリ目が覚めている。それでも未練がましく寝床に居残ってみたが、頭が冴えてしまっていて、あきらめて起きる。
さて、今日は何をするかな。と反射的に考えてしまう思考回路を打ち消し「今日もリフレッシュ。家族から解放された、自由な時間を満喫するのだから決めごとはなし」と自分に言い聞かせる。
ワンコとの朝散歩をゆっくり味わい、遅い朝食をとる。空は晴れていて気分は爽快。こんな良い天気だと、布団を干して洗濯をして、え~~っと・・・じゃなくて!
だから今日は何もしない日。思いきりだらしなく、だらだら過ごすのよ。
ふだんゆっくり読めないブログも読めるし、書けるじゃないか。と思うのだが、これがなかなか考えたようにいかない。たっぷり時間があるのに。
何もしないことによって得られるリラックス感や心のゆとりは、なにがしかの発見や幸福感につながるはず・・・なのだが。
どうしても、根っから「貧乏性」に出来ているらしい。何もしないことに対して、反射的に罪悪感や苦痛を感じてしまうのは、なぜ。
無意識に、時間を有効に使おうという意識にとらわれている自分に気付く。
いつから、自由にきままに時間を使うことができなくなったのだろう。
学生の頃までは、自由時間はキラキラ光っていた気がする。一日中ボーッと将来につながる時間のなかで、いろんな発見や成長をした気がするのだが。
長い社会人生活の間に、「何かをしなければならないという使命感」や「何かを成し遂げることで自己価値を感じる」ように改造されてしまったか?!
ともあれ、なんの縛りもないこの数日は、たしかに贅沢感満載で幸せだったことには違いない。読みたかった本も少しだが読めたし、帰宅した夫や、母親にはいつもより優しくなれたような気がする。
気づかないうちに、日常疲れのオリが溜まっていたのかもしれないな、と感じた。