午後6時半。母の夕食の時間だ。
友人との電話を途中で断り台所に立つ。
母の廊下を歩く足音の後、リビングの戸が開く。
いつもより少し早い。焦り気味で味噌汁を椀によそう(る)。
食卓に置いた途端「味噌汁はどうでもいいのよね」と、母は椀を片手で遠ざけた。
時間に間に合うように急いで支度をした私は、瞬時にキレた。
「そんな言い方はないんじゃないの」
母は少しびっくりした風で、わけがわからない顔をする。
「出した途端に、味噌汁はどうでもいいって言うことはないんじゃないの」
「だって、出した時に言わなきゃわからないじゃないの」と母が言う。
ほう・・・喧嘩を売る気か?!
いやいや、これはたぶん自分の発した言葉の自覚がなく、すでに話の流れを見失っているパターンだ。
私は意地悪になり「じゃあ、どうでもいい味噌汁は食べなくて結構!」と口調を強くした。それから母の顔を見ながら
「ね、そういう言い方すると、売り言葉に買い言葉ってなるでしょう」と言ってみる。
彼女はいっそう分からない顔になる。
分からないふり作戦か、とばかりに「少しは相手の気持ちを考えて、ものを言おうよ」というと「わたしが何を言ったっていうのよ」ときた。
えっえぇぇ・・・たった今その口で言ったじゃん、と怒りがわく。
すると顔を両手でおおい「まるで八つ当たりされてるみたい!」と叫んだ。
私は深呼吸をして状況説明をしたところ、そんなことは言ってないとキッとしている。
気をとりなおしてゆっくり説明すると少し落ち着いてきたが、すでに記憶にないのだろう「わたしがそんなことを言ったの?ほんとに?」と猜疑の目をしながら「このごろ頭が変なのよ。自分で言ったことがわからない」と、下を向いて黙り込んだ。
またまたすり替え作戦に出る母。
認知症は全く別人になるわけではない。一枚いちまい服を脱いでいくように、その人の素地が表面に出てくる。母には昔から、機転が利いて要領がよくこズルい面があった。
が、このパターンはあまり良くない。
記憶と理解、まして説得を求めてはだめなのだ。
何度も失敗して分かっているのにまた、はまり込んでしまった。
なんとか本人が納得する着地点をさがさないといけない。
「いくら家族でも相手の気持ちを考えて暮らしていかないと、嫌な気分になって楽しくないでしょう」と一般論のような話をする。
身に覚えのない(と、本人は感じている)ことで責められていた気分から軽くなったのか、スッと顔を上げると「うん!分かった」と言って、ケロリと食事をはじめた。
「それが分かってくれたらもういいんだよ」私もそう言って、しっかりこの流れを終わらせてやる。
彼女は、知ってか知らずかいつも言いたい放題。相手が何をしてようがどう思おうが無頓着。いつもすべて本人に意識なく、焦点が定まらないままうやむやで終わり、わたしの中にはまたひとつオリがふえていく。
認知症介護は決して難しくない。今までどおり家族で暮らしていくだけ | 家族介護者の負担を軽減するために知っておきたいこと