愛犬と海と日常

貧乏性を抜け出して優雅に時間を使えないものか

あなたはどんな夢を見ますか?

そういえば最近、夢を見なくなったなぁ、と気がついた。

 

寝苦しかったり、半覚醒状態で思考が夢に移行していたり、不快な気持ちで目覚めたりはあるのだけど。

 

いつの間にか「ゆめのある夢」を見なくなった。

かなえられる夢を厳選したように、妙に現実的な夢しか見ない。

 

それこそ「夢がない」話だ。

 

歳をとるってこうゆうことなんだ。

十分すぎるくらい大人になってくるとね。

長年、仕事や人間関係でもまれるうちに、眠っている間まで頭の中は現実に即したものになってしまうのかな。

 

だとしたら、なんとさもしくて悲しいことか。

気がつけばもう、それは「夢」じゃないよね。

 

思えば遠いむかし、忘れてしまうくらい幼かったころ。

一人でいつも原っぱで遊んでいた記憶がある。そして大きな岩をみつけては、その岩に登り空を飛ぼうと真剣に考えていた頃があった。

 

わたしの幼い時代は、家から出たら整備された公園などではなく、自然な広場や原っぱが無数にあったものだ。

 

記憶の中では私が大きな岩から何度もなんども飛んでいる。

(飛び降りていたというのが正しいかも(笑))たぶん体が小さかったせいで、それは岩ではなく大きな石程度のものだったと思うが。

 

ひとりで居て寂しかったわけじゃない。そのころは自分と遊ぶのが大好きで、いつか空を飛ぼうと真剣に考えていたのだ。

 

背中に羽もないのに、ひたすら練習すればいつかは飛べると信じていた。岩から飛び立つ瞬間、当然すぐに地面に着地してしまうのだが、飛び上がったその瞬間、幼いわたしは確かに空を飛んでいた。

 

きっと気持ちの中では、大きな羽ばたきと共に空に舞い、嬉々としていたに違いなかった。

鳥のように空を飛べたら、世界はどのように見えるのだろうか。高度4000メートルからの風景

 

日がな飽きもせず、胸いっぱいに期待を膨らませて「今度こそ」と何度もなんども岩から飛び降りて遊ぶ子供だった。

 

小学校の低学年の頃になっても、友達がほしいと考えたこともなかったように思う。

友達と一緒に居るより一人の世界のほうが楽しくて安心だったのだ。

 

しょっちゅう風邪をひいて熱を出す子供だったせいか、時間があればひとりで絵を描いたリ、本を読んでいることが多く、あまり友達と外で遊んだ記憶がない。

 

鬼ごっこやボール遊びや、輪ゴムを結び繋いだゴム跳びなど、見ていた風景は頭の中に残っているのだけれど、自分が参加した記憶はあまりない。

 

そう。きっと変な子だった、と思う。

「〇〇ちゃん、あーそーぼー」と、たまに近所の子供が誘いに来るが、わたしは平気で「遊ばなーい」と言う子供だった。

 

だけど、そこそこ嫌われないで成長できたのは、おそらく目立つことをしてこなかったからだろう。みんなの中でわたしの存在が薄かったからだと思っている。

 

もしかしたら、自分と遊ぶのが大好きだったのは、本当はその後もずっとそうだったのかもしれない。

 

否応なく大人になって、世間の風や空気を吸っていろんなことを覚えて、きっと学習したのにちがいない。

 

無心に空を飛ぼうとしていたあの頃、私の頭の中はどこまでも自由で奔放だったのだ。いろんなことを夢想して楽しむことができたし、願えば叶うと信じていた。

 

読んだ本の世界に没頭し、それは夢の世界にも反映し、私の頭の中はそれはそれは無限に空想的でわくわくするものだったはず。

 

いつの間にか、めったに風邪も引かなくなり人前で物が言えるようになり、人間関係の迷路を通過するにつれて、私の頭の中から幾つもの何かが消えて行った。

 

思春期や初めて社会に出た時期によく見ていた気味の悪い夢。

低空飛行で腹が地面に付きそうになり、それでも必死に飛ぼうとして力を入れ、疲れきって目を覚ましたり、泳いでいる手足がどんどん重くなって必死でもがいたり、降りている階段がみるみる急斜面になり、最後には直滑降になるなど、そんな恐怖の夢も見なくなったかわりに、楽しい夢も見なくなった。

 

それはそれで良いことかもしれない。若いころのように将来の不安におびえたり、迷いの中で苦しむこともなくなったのだから。

 

決して戻りたいとは思わないのだけど、あの幼いころに見ていた世界をもしできるなら、もう一度見てみたいと思う。

幼い子供が成長して老人になるまで一本の木が見守りあたえ続けた心にしみる無償の愛・・・