愛犬と海と日常

貧乏性を抜け出して優雅に時間を使えないものか

愛犬の最後の旅路を支える

看取りのための心の準備と物質的な準備

倒れて緊急入院、だが四六時中ナツのことが頭から離れない。
あのひとりきりのゲージの中で命を落とすようなことがあったら、と考えるだけで胸をかきむしられる。

 

発作時の座薬とてんかん予防をふくめた鎮静の経口薬をしっかりもらって自宅へ連れて帰り、点滴は通院で処置してもらうことにした。

介護用のシリンジや、口腔内の洗浄用に綿花、排泄用の幅広のシートなど気持ちの準備と必要なものの準備を整える。

専門家の助けとサポート体制

連れて帰って翌日、目をパッチリ開けた後、起きようとする動作が見られた。
だらんとしていた首に力が入り頭を持ち上げすごい回復力をみせた。
一気に気持ちが弾んだ。好きなチュールを湯に溶かし、口の大きなシリンジで与えてみると、ゴクンゴクンと飲んでくれた。もしやとチュールをそのまま口に近づけると、首を伸ばして食いついてくれた。

 

このまま回復すると信じたい思いと、人間でいうところの98歳になるナツの年齢を思う。チュール4本分くらいをシリンジで摂ることができて眠ったが、夕方覚醒と同時に激しい痙攣が再燃した。

経口薬ではすぐには効かず、座薬を使用すると10分くらいで静かに眠り始める。
6時間ほどすると少しずつ覚醒がはじまり呼吸苦や顔面から前足まで振戦がはじまる。

 

眠っている時に水を口に含ませれば誤嚥の可能性が高い。覚醒していると痙攣でこれまた誤嚥する。やや覚醒時の合間をぬってシリンジで水分補給する必要があり目が離せない。

午前から夕方までは点滴のために病院に預け、夜は夫と交代で夜通しそばについて介護をした。その後、この繰り返しがつづくことになり衰弱を極めていったが、再度入院させようとは思わなかった。

 

調子が良いと50㎖飲めることもあったが、6㎖程度で口を閉ざし眠り込むことが多くなった。もう激しい痙攣をおこす力もないように思えた。

最後の選択 飼い主が直面する難しい決断

栄養点滴を打ち切ることを決めた。
一週間通って、点滴の効果はないと思えたからだ。

 

点滴で回復するとはもう考えられなかった。だとすれば天寿に逆らう延命でしかない。いつもナツがいる場所でゆっくり旅立ちの準備をしようと夫と決めた。

 

あの世の父と亡き愛猫ハナコに、もう少し一緒に居させてとお願いをする。
同時に、迎えに来るときはナツが不安にならないように、一緒にいてこれからは面倒見てあげてね、とも。

 

口からわずかに入る量が尿となってシミを作る程度の排泄となる。便はもう出ない。
おむつの上で毎日、あったかいお湯でお尻と陰部を流す。キョロンと目を開けることがあるが、もう見えてないようだ。


苦しいのか、出ない声で何かを訴えるナツが洗浄の時だけは目を閉じて眠り込む。気持ちが良いのかな、と飼い主も気持ちが穏やかになる。
わずかな交流を感じながら、飼い主もこうして気持ちを整理していくのだなあと考える。

最後の時間で感じる深い感謝と感動

介護する方も連日連夜でさすがに疲労困憊していく。そうすると人間は自律神経の不安定から感情失禁が起こる。何をしていても、料理をしていても、掃除をしていてもナツを見ていなくとも涙があふれ、悲しみが押し寄せて止まらない時間が周期的にきた。

 

あるがまま、すべてを受けとめ、自分の感情を受け入れることにした。
もう10日以上急いで買い物に行く以外は完全に引きこもり、ナツのそばを離れていない。

前足が小刻みに動くたびに、もう一度点滴で水分を入れたら、栄養を入れたらもしかして奇跡は起きるのだろうかと、かすかな後悔を伴なう希望が気持ちにわいてしまう。

 

これは痙攣で動いているのだ、と自分に言い聞かせる。

辛くて苦しいけれど、素直に感情表現をしてナツの愛や癒し、忠誠心を振り返ることが心の整理になると信じた。

喪失と悲しみ 犬との別れによる感情の波が押し寄せる

発作を起こし倒れてから12目、点滴を止めてから6日目、続いていた荒い呼吸が聞こえなくなった。はっとして顔をのぞくと、静かにしずかにナツの息が止まった。人間でいうところの下顎呼吸、パクパクと2回口を開けた後、完全に止まった。

 

ああ、楽になったのだなあと感じた。同時に感謝の気持ちが胸にあふれる。ナツに対するかぎりないありがとうの気持ちでいっぱいになり、苦しいほど涙がこみ上げる。

 

どれほどのものを私たちに与えてくれたのか、私はそれに応えてあげられたのか。

過去、親にも仕事でもしたことのないような介護をしたなあ、と思う。
じっと見ていると、わずかに呼吸をしたような錯覚を何度も覚えた。

力が入らずグラグラだったナツの首がしっかりしてきて、もうすでに死後硬直がはじまっているのに・・「もう、生き返らないよ」と何度も自分に言い聞かせていた。

追悼する儀式の意義

棺にするための段ボールを買い求めるため、もう何日も出ていない外へでる。

太陽がまぶしい日だった。ナツの身体が入るように二枚の段ボールをカスタマイズし、たくさんのお花でいっぱいにする。最後の排泄を処理し、いつも散歩のときに来ていた服を着せる。大好きだったごはんも入れてあげよう。

 

明日は荼毘にふす。

もう外出も買い物も急がなくていいんだ。近場の天然温泉に行こうと思った。自分を癒してやりたかった。

 

湧き出る湯の音を聞きながらもうもうと湯気の立つ源泉に浸かる。気分がすっきりして外の風が気持ちよかった。が、車に乗ったとたん、再びナツへの思いが激しくわきあがり嗚咽が止まらなかった。

 

たかが犬ごときという人もいる。日常の生活すべてを共にしてきた場合、旅行も一緒に楽しいことも悲しいことも共有すると、その存在はまさしく家族そのものになる。

曇天の日、ナツを空へ送った。

煙突から一度だけ煙がまっすぐに立ち上り、あとはいやいやと言うように白く横に広がり消えた寒い日。

型通りの葬送儀式を終える。

 

小さなカプセルを買いもとめ、ナツの体の一部を入れてもらった。これまで通りフーと一緒にお散歩できるように、いつものお散歩バッグに下げておくためだ。

まだ私のいたるところに残る、ナツの感触と重みが小さな骨壺におさまった。

ボランティアさんへ寄付金が行くという写真たてを買い、帰り道あったかいおうどんを食べた。冷え切ったからだが温まり生き返った気持ちになる。

 

車の中からフーがひとりで泣いているのが聞こえた。もう一緒にお留守番してくれるナッちゃんはいないからね。

 

一連の儀式の過程で少しずつ気持ちが整っていく。

存分に介護させてくれて感謝してるよ。最後にいっぱい一緒に居られたね。ありがとう、また会おうね。

 

 

※読者の方やご縁のある方からご心配や励ましのお言葉をいただきありがとうございました。気持ちが崩れそうなときに本当に心強く、感謝しています。ブログやSNSの使い方がよくわかってなくて、コメントの返し方もうまくできず失礼があったかもしれませんが、とてもうれしかったです。