愛犬と海と日常

貧乏性を抜け出して優雅に時間を使えないものか

「書く」のはなぜだろう、とふと考える

おもえばこれまで学生やらせてもらって、仕事やらせてもらってきた中で「書く」ことはずっと関わってきたことになる。

幸い、字を書くことは嫌いではなかったのでレポートも論文もそれほど苦痛を感じたことはなかった。もちろん、中身の出来は別としてだけど。

 

小学生の頃には、あれこれ背伸びの読書をして、小説まがいの短編を同じ興味を持つものどうしで回し読みをしたりしていた。今思えば無意識に同人誌を作っていたようなもので楽しかった。どうやらこの頃から私のインドアの気質は出来ていたようだ。

 

成長するにつれ、才能がないことに気がつきほかの道を選んだが、何につけ書くことからは逃れられなかった。

仕事で書いてきた量がいちばん山のようになった。仕事をしてきた中で求められたのは主に記録文書や論文であり、論理的で私情を交えず事実確認を基にわかりやすい文章力が求められた。

 

その反動か、自由な作品を何か書き残したいといつも考えていた。

今、フリーな毎日を手に入れたが何も書き残せていない。これまでやってきた仕事のノウハウをまとめたミニ書籍が一冊あるだけだ。

「著す」「執筆する」そのスタイルに憧れていたのかもしれない。だが、読み手を意識せず(いや、すべきなのか?)自分の内部を表出させ一つの作品を完成していくことは簡単ではなかった。

 

作家さんは「書かずにいられない」「自分のために書く」とカッコいいセリフが似合うが、ならばなぜ「発表するのだろう?」「どうして自分だけのカタルシスではいけないのだろう」といつも考えていた。その答えがまだ出ない。

 

かつて夢中になって読んだ「まんだらやの良太」の作者である漫画家の畑中淳氏が同じ疑問を作品の中で放出している。長編のこの作品は癖が強く、なかなか馴染めなかったが、一冊読み終わるころにはすっかり虜になった。
人間の業ともいえる心の深い部分が的確に表現されている。絵は一見雑にみえるが、おそらく水木しげる氏や、つげ義春氏の影響を受けたのではないかと思われる繊細でち密な描写が、独特の雰囲気を醸し出している。


表面のエロに惑わされてはいけない。人間の欲や情念を描くことで本来の人の心を光らせている全53巻、わたしの中では漫画では終わらず哲学となった。

 

描写の中で、昼間からゴロゴロ寝てばかりの男性を批判する人に、男性が「自分のやりたいことを全部やってしまったら後の人生、どうする?」と聞く場面がある。聞かれた人は一瞬考えた後「うーん、寝て暮らすかな」と言い、男性は間髪入れず「だから私は今そうしてる」と答えるのだ。

ほぼ記憶で書いているのでそのままの文章ではないかもだが、主旨は伝わっていると思う。随所にそういった機微がちりばめられている作品だ。

 

ただし、あくまで主観。夫に言わせれば「趣味の悪い漫画」としか受け取れないようで評価する私は変人でしかない。でもそれで良い。

もちろん、もう新刊では手に入らない。

 

もっとも、同じ壇上に立ててもいない私が考えることでは全くないことなのだが。

その点ブログは楽しい。作家さんたちのようにしのぎを削り世に出す作品と違って、書く作業は同じだが、身近に読んでくれる人の存在を感じながら書くブログはあたたかくて楽しい。

 

もう頭も柔軟ではなくなってきた昨今、顔も知らない人のことを勝手にイメージしながら、ブログを読ませてもらって少し気持ちがわかるような気持ちになったり、なかなか記事が上がってこないと、病気でもしてないかと余計な心配をしたりしながら、そのくせコメントする勇気は無くて。

子供の頃のように仲間同士で何かを作っているような気持ちにさせてくれている。