母は決まって20時半に洗面をし、ベッドのある部屋へ移動する。
その後、布団の中で時代物の推理小説を数ページ読み(?)眠るのが日課になっている。この頃は、いつまでも電気がついているのでそっと部屋をのぞくと、開いたままの文庫本を胸の上にのせたまま、口を空けて眠っていることが多くなった。
午前0時を回り私たちもちょうど寝入りばなの頃、一階の母の部屋から壁をドンドンするような物音で目がさめた。
緊急あるいは、夜間に我々を呼びたいときのために、握りやすい半月型のタンバリンを枕元に置いてある。タンバリンの音は聞こえなかったが・・、それも出来ないほど危険な状態なのか・・。
身体が覚醒しないまま、階段を駆け下りるわずかな時間にも不安が湧き出し頭の中を錯綜する。
端坐位の母が鼻と口から血を流していた。
ベッドの布団カバーもシーツや枕も血で汚している。
「口から、口から血が出るんよ」「ほら、こう、こうよ」とティッシュ―を束のようにつかみ取りながら口から流れる血を、震えながらすくい取ろうとしている。
母はすっかりパニックを起こしており、瞳の焦点が定まらない。
ただの鼻血にしては出血量が多いようにも思う。キーゼルバッハ部位からの出血ではないかもしれない、と恐怖を感じながら「鼻血だから心配いらない」と母に何度も言うが母の耳にも心にも入っていかない。
夫が「上を向いて寝なさい」と言うのを慌てて制止する。鼻血に関しては誤った情報が定着しているので危険だ。
そういえば子供の頃から、「鼻血が出た時は上を向いて、首の後ろをトントン叩くと止まる」と聞かされたのを覚えている。
上を向いたら大量の血液が喉から胃に流れ込んで吐き気を催してしまう。首の後ろをたたいて刺激するなどもってのほかだ。止まるものも止まらなくなる。
鼻の穴にいろいろ詰め込んで止めようとするのも、出どころを止血しない限りは効果はない。まして詰め物を取り出す際に凝固しかけたかさぶたをはがしたり刺激を与えてしまうことになる。
もともとるい瘦の母、貧血で倒れてしまうのではと思うほど顔色が無い。
ほんとうは前かがみで端坐位のまま、鼻をおさえる止血がベストだが、息も絶えだえで体を起こしていることが辛そうなため、横向きに寝かせて落ち着かせることにした。
全く私の声が耳に入らず、血で汚れた口元を何度も手で探ろうとする母のしぐさに苛立ちながら、夜間にもかかわらず大声を出す。
「そうそう、鼻の上の方をしっかり押さえて」「口からの血は鼻から流れてきただけだからね」「飲み込まないで出していいから」「鼻と喉はつながってるからね、流れてきてるだけだから」
耳が遠くなってからは反応が分からない。聞こえているのかいないのか。
そのうちは母は、恐怖からか体を固くしたまま目をつぶってしまった。
「高齢者の鼻血は危険」出血が止まらないようなら救急車か?!と頭の中で考える。
母はワーファリンなどの血液の抗凝固剤は服用していない。
しかし93歳だ。動脈硬化からかもしれない、若い時の腎臓の既往のせいか、もしかしたら血液の疾患かも・・とりとめもなく得体のしれない不安が沸き上がる。
それから15分ほどしたろうか、不快からか口の中を探ろうとする母の手が止まり、出血がおさまってきた様子。開いた母の目の焦点が合い私を見た。
安堵の表情を見せて「止まった」とひとこと。
これでやっと話が頭に入っていきそうだ。
危険な状況が過ぎた。
気づけば床にもポタポタと血液が落ちている。とりあえず汚れた手を洗わせて、その間に汚れたものを片付け母を寝かせた。「眠れそう?」「わからん」
明日はしっかり掃除しよう。それにしても先日(前記事)から流血事件がつづくなあ~
自分の布団に再び横になるまで1時間強が経過していた。
なかなか眠れそうにないまま目を閉じた。
「大丈夫、大丈夫」「心配ないからね」
パニックの母に、どうして私はそう言ってやれなかったのだろう・・と何度も心のなかで繰り返していた。