愛犬と海と日常

貧乏性を抜け出して優雅に時間を使えないものか

時間がたっぷりあるとナニもする気にならない

自分なりに仕事を完了して引退した。副業など考える隙間もないほど働いた日々は、最高に苦しく、最高に充実したかけがえのない時間だった。


仕事に悩むスタッフには、常日頃から「仕事ができる時間は限られているよ」と目の前の仕事に、全力で向かい合う大切さを伝えてきた。
終了の年齢が近づくにつれ、なにより自分が実感していたからだ。

そのことに気づくと、どんな苦労も愛しく真剣に取り組むことができる。もう巡り合えないと思うと、目の前の案件がありがたくて勿体なくて、いい加減には出来なくなる。

 

同時に終了が見え始めたころから、時間ができたら「・・・をやりたい」を意識するようになった。


記録や計画書の作成で四六時中、書き物に追われていたせいか、仕事の縛りを解かれて、自由に時間を使って書きたいものを書けたらたのしいだろうなあ、と考えるようになった。

 

さて、ここで冒頭に戻るわけだが、

「時間がたっぷりあるとナニもする気にならない」のだった。

           にゃんにもしたくにゃい

他の人のブログを読ませてもらうと、自然で力が抜けて好きなことを思うように表現されていて・・素晴らしい。

ありのまま、気取りもてらいもなく、こんな文章が書けるといいなあと思う。

 

私のブログは肩が凝る。読む人の目を気にしている。

何者でもないくせに評価を気にして、結局何も書けずにいる。人の心に伝わらない。

 

中学時代のトラウマがまた頭に浮かぶ。

当時、体力に自信のなかった私は美術部に所属しており、写実的な美しい絵を書くのが得意で、クラス中の注目を浴び絶賛されていた頃がある。

 

自分でも「絵が上手」と有頂天になっていたかもしれない。

が、どうしても展覧会では金賞を取れないのだった。

そんなとき、美術の教師から「君の絵には心がない」と言われたことがある。

 

その後の人生、ことあるごとにその時のトラウマが顔を出す。
打開できないままだが、教師のその一言は、良くも悪くも私のその後の生き方に影響を与えた。

 

自分は頑張っても一番にはなれない。
いつの間にかその姿勢が生き方そのものになり、団塊世代の競争社会を避けて自分の居心地の良い場所を求め続けてきた。

 

周りから見れば、順調に仕事を終了し「今更何もしなくともよいだろう」というのが私を取り巻くものの全員一致の意見。

これからは今まで頑張った分、ゆっくり自分のために時間を使ったらよいというもの。

 

この「自分のため」というのが曲者なのだ。
周りの意見を集約すると、いろんなところに旅行に行って美味しいものを食べる、という形が一般的に自分のための贅沢な時間の過ごし方らしい。

 

ところが私にはさして旅行の趣味がない。まず、飛行機、船には絶対乗りたくない。足が地についていない乗り物は一切信用していない。

 

もちろん、現役の頃は仕事なので仕方なく乗ってきたが、プライベートの時間まで危険は冒したくない。

 

バスは酔う。自家用車移動ならよろしいのだが距離的限界がある。そのため近場の温泉旅行がせいぜいである。私はそれで充分満足できるようになっている。

 

それより、自分の心の欲求を満たしたくて仕方がない。達成感や充実感を求めてしまうのだ。承認欲求は人間である証明かもしれない。

 

で、結局今日も「刑事コロンボ」のビデオを見て一日が終わる