愛犬と海と日常

貧乏性を抜け出して優雅に時間を使えないものか

アンラーニングの実践

仕事を終了して一年が過ぎ、時間を埋めることばかりに夢中になり、現役中には出来なかったことに没頭した。私の場合SNSやライティングだったのだが、目新しい内容と自己表現の場を得て面白く一年が過ぎた。


今、冷静に振り返って気がつく。ぽっかり空くだろう時間に私は恐怖したのかもしれない。

今まで自分の生活のほぼすべてを会社に費やしてきた。体力にも自信がなく、こだわりが強く不器用な自分にはそうでもしないと出来ない仕事だったから。

 

もちろん、一点の曇りなく後悔のない充実した期間だったし、ありがたいことにその時代は目に見えない自分の能力以上の何かをいつも感じていたものだ。

 

ひき時を自覚してからの数年は仕事ができるいちにち一日が愛おしくて仕方なかった。もちろん仕事柄、日々困難の遭遇だったけれど、それを包括しても尚、楽しかった。

だから若い人たちにはいつも「自分が思っているほど、全力で仕事ができる時間は長くないよ」と伝えている。ほんとにあっという間に歳をとる。

 

かといって、もう一度若いころに戻してやると言われたら「二度とごめん!」したい。しんどい中でようやっと、ここまで来たのだもの!

 

同じように事業運営している友人たちは高齢になっても籍を置き、役員報酬を得ている人が多い。私はいつの間にかはっきり引退の時期を決めていた。

 

周囲の方たちからは口をそろえて「どうして? まだまだできるじゃない」と嬉しい言葉をいただいたが、予定通り辞めた。

いつまでも続けようと思わなかったのはなぜだったのだろう?自問自答してみる。

 

この頃リフレインすることが多くなった。

「振り返り」「内省」という言葉がいちばん当てはまるだろうか。

 

自分がやってきたことを振り返り、内省することで学びに成長させていく行為だが、その過程で自分も気がつかなかった、一番大切に思っている価値観に気づくというもの。

ただし、きちんとリフレインの方法を習得した人が可能なこと、私はそこまで修練できていないので我流の内省に過ぎないのだが。

 

自分の可能性を試したかったなど、ありきたりの言葉も頭をよぎるが、おそらく私はいつまでも現場にすっ飛んでいく現役でいたかったのだろうと思う。

 

経験と歳を重ねるにつれ、初対面の関係機関の若い方から敬語で話しかけられるようになった。あげくに「ご一緒出来て光栄です」と言われたときに引退を決意した。

外部から見られている自分と、自身の描く自分とが乖離してきたからだった。

また、今までやって来た仕事のスキルだけで残りの人生を過ごしたくはなかった。

 

ただし引退した後は、時間の使い方によほど工夫しないと「燃え尽き症候群」を起こしかねない。目的のない時間程、精神を失調させるものはない。

 

それで無理やり手あたり次第にSNSに没頭した。

あえて海沿いに作業部屋を借り、まるで出勤するがごとく多忙な中に自分の身を置いたような気がする。

 

その後は、WEBライターきどりで結局は振り回され、何度もテストや原稿料を搾取され、さんざん無能扱いを受けるなど、興味深く刺激的な時間が過ぎた。

 

そんななかで一冊の本が残せたことは、書くことのハードルを越えさせてくれて、自分への証となったような気がする。

数年早く引退していた夫はその経緯を面白がって見てくれていた。内心呆れていたに違いないが。

その経緯の一部始終に静かに付き合ってくれる友人には感謝の思いが尽きない。

 

時間が経って今、ようやく引退した自分を受け止めることができたようだ。

やっと、周りのことが見えてきた。たっぷりの時間を楽しむことにも罪悪感を感じなくなった。すると、部屋にものがあふれていることにいまさらながら気づいたのだ。

 

遅ればせながら断捨離をするにあたり、自分の内面の断捨離も必要になった。

まさに今が丁寧なリフレクションの上でアンラーニングの時かもしれない。

 

長年の免罪符だった仕事人生の中で、山のようにため込んでしまった余計なもののひとつ一つを取捨選択していくのだ。

 

今ならその作業に向かい合える気がする。

もう海沿いの作業部屋からも卒業できそうだ。

 

ビジネスや社会情勢の変化に応じて、新しい知識やスキル、価値観を習得するためにアンラーニングが必要なように、これから生のある限りつづく、高齢者で生きていくための新しい価値観を築いていかなければならない。

今後の生き方のために、これまでの経験で成長した経緯やプライドなど自分でも気がついていない贅肉を捨て、新たなスキルや価値観をアップデートするのだ。

意識改革を行い人として進化し続けたいと思う。